縁起

薬師如来畧縁記

擅上御戸帳の中に安置し奉る薬師如来の尊像は、忝くも行基菩薩の一刀三禮の御作なり。
そもそもその由来を尋ぬるに、人皇四十四代の帝、元正天皇の御宇霊亀元年乙卯菩薩諸國御修行のおりから、當國出生寺(今法藏寺)に於て諸人を御指導の時、夜な夜な池上の里(現池金町)白草山にて霊光頻りに輝きければ、不審におぼしめされ、ある夜、光を尋て當所へ来らせ給ひ、千田が入りのほとりをかなたこなたと緋緬し給ひし所、不思議なるかな白草山のふもとに年経し楠の大木あり。
近づき詞ひ給へば、紫雲蒙々と樹木間にたなびき、異香粉々たり。菩薩驚き給ひ、よもすがら読經祈念し給ひければ、妙へなる天童現れ来る。
菩薩に告げ奉るには、そもそも此の名木は、天照大神豊葦原へ降臨し給ひし頃より、枝葉栄えていとゆうゆうたる霊木にして、三世一切の諸佛菩薩も常に此の辺りに降臨し給ひ衆生を利益し玉ふ處、然し衆生の根性邪見にして三宝を信ぜず。
依てこれ護法善神の恵にはずれ、短命変死するものすくなからず。菩薩広大の慈悲を起して、何卒此の名木を以て一刀三禮の薬師如来の尊像を彫刻して、此のほとりに安置し給はば、上は諸神の威力を増し、下は人民の利益ますます盛ならん。
ゆめゆめおこたり給ふなと言い終わると、天童は忽ち日光月光との二大大使と化して遥か東方さして飛去り給ふ。菩薩渇仰の思ひを成し、此の霊木を以て一尺八寸の尊像を彫刻し、帝へ訪問して堂塔伽藍を建立し、則ち本尊と仰ぎ奉り「法輪山 醫王院 養薬寺」と号して寺門の繋昌をと可となし。
是より以来、霊験あらたかにして風雪をいといず。諸人あゆみをはこび、此の尊像を恭敬し奉るに、衆病悉除の誓願むなしからず。
一瞻一禮の輩は、その加護を受こうむらずと云ふ事なし。その後、保元平治の頃に當國よりみだれて合戦、しかも止むときなし。就中文永年中には、靍見因幡が(土呂城主)ためにさしもすぐれてまさる堂塔伽藍も一時に灰燼となりければ、生身の尊像も行くえ知れずになり給ふ。かくなれば、諸人なげき悲しみ尋ねれど、さらにその甲斐なかりけり。その後、曲り淵(現在の切間川)にて毎夜、夜な夜な光りければ村中のもの奇異の思ひをなし、ある時かの淵へ網をたれしに、不思議なるかな水中より光明赫く赫くとして出現し給ふ故に「川遊びの薬師」と申し傳ふ。
その後、天文の末、法藏寺七代神君様御叔父君、教翁洞英上人ある夜夢中に此の尊像より薬法を教ゑ給ひしゆへ、自ら調合し常々是を用いさせ給ふ。
爰に於て、東照神君様今まだ竹千代君様と申し上げ奉りける節、法藏寺に於て御習学せられし折、ある夜俄に御腹痛の氣味ありし所、教翁上人取りあへず此の御薬を上げさせ給ひ、またこの尊像へ御祈念なし給えば、早速御平癒遊されし故、御喜び浅からず。信心渇仰し給ふ故なり。ある夜此の尊像教翁上人の御枕元へ出現し給ひて、往古の由来一々に告げさせ給ふによって、佛勅にまかせ當寺を再建なし給ひ、往古と復し「養薬寺」と稱し、念佛不退の道場と相成りける。

安政八乙酉年 二月二十四日 開帳の節
昭和三十五年 新 十二月八日 改書

住職あいさつ

住職

僧侶として歩み始め、20年となりますが、時代の移り変わりの速さに、少々「とまどい」を感じている今日この頃です。お釈迦様は「諸行無常」とお示し下さいましたが、現代においては、世の中には変わること、変わらないこと。あえて変えていくこと、あえて変えてはいけないこと。があると思います。
当山はそんな時代の流れにしっかり適応し、究極に檀信徒に寄り添ったお寺を目指しています。
企業でいえば採算度外視。
「笑顔こそが最大の供養」をモットーに皆様の供養したいと思う信仰心にそっと寄り添っていける寺院でありたいと思います。

浄土宗西山深草派 宝林山 医王院 養薬寺
第41世住職 河合延昭

住職略歴

昭和52年養薬寺に生まれる。大学卒業後、総本山誓願寺に随身。宗務所職員を経て、25歳の時に自坊へ戻る。
一般企業でのアルバイトの傍ら、当派布教講習所、式衆会等での学業研鑽に励み、自坊の法務に明け暮れる日々を送る。
平成23年養薬寺住職を拝命。法然浄土、西山深草の教えに感激し、当派布教師として日々邁進している。

境内案内

境内風景

本尊

  • 薬師如来

  • 地蔵菩薩

墓地

  • 永代供養

  • 無縁仏

地域の憩いの場

地域のコミュニケーションの場となるお寺

当寺院は、地域のこどもたちや大人たちが気軽に遊びに来たり写経等を通じて仏教を学べるよう、
地域のコミュニケーションの場として活動しております。
誰もが気軽に来られる開かれたお寺となれるように日々心がけています。一度お気軽にお越し下さい。